新しい価値観の創造に向けて
現代社会を生きる我々はいかになる生活形態を選択したとしても、多少の差こそあれ、その存在自体が環境に対してマイナスの影響を与えてしまうことは否定のしようもありません。だからと言って開き直ることは自身の首を絞めることであり次世代への責任を放棄することでもあります。これまでの積もり積もった問題が一気に顕在化した今こそ価値観の転換が求められているのです。
私はこれまで約10年間山作りの現場に携わってきた中で、林業を取り巻くどうしようもない状況を目の当たりにしました。何らかの形で林業に関係した方であれば少なからず同様の印象を抱いていることでしょうが、残念ながら一般の方々にはなかなか判りづらい問題です。この提案は自分なりに考えた森林活性化計画です。あまりに突飛でこれまでの概念からするとすんなりと受け入れられるとはとても思えませんが、この計画書ではまったく新しい人と森林との関わり方を提案します。
原点
私は軽井沢に生まれ子供の頃は常に近所の山や川といった自然の中で泥だらけになって遊んでいた記憶が鮮明にあります。高校、大学時代には山岳部に入り登山という形で自然と向き合い、社会人となり都会で化学プラントの設計エンジニアとして働いていた時にも足しげく山に通い続けました。その後、林業作業員、樹木医などの仕事を通してやはり自然環境を強く意識する立場にあります。
現在における意識が必ずしも幼少の頃の経験のみに左右されるというわけでもないのでしょうが、自分の場合に関してはやはりその時期に接していた軽井沢の自然環境が少なからず影響しているようです。
悲しい現実
軽井沢と言えば屈指の観光地でありますが、その魅力の大きなところを自然環境が担っています。しかし、その軽井沢ですら(軽井沢だからこそ)近年著しい環境開発にさらされています。自分の親しんだ森や草原、川などが急速に姿を変えてしまっているにもかかわらず何も出来ないことには空しさを覚えます。 このことは特に軽井沢に限ったことではなくその変化の速度に多少の違いがあったとしても日本全国どこでも見受けられることでしょう。
地球規模での温暖化に代表される様々な環境問題が頻繁に語られる一方で、依然として大規模な環境開発、大量消費、利便性の追及には歯止めがかかりません。昨年は“もったいない”という言葉も流行りました。しかし、巷にはどんどんと新しい商品がならび人々の欲望をあおり続けます。環境問題が重要課題であるという共通認識はあるにせよ、まだ個々の存在に関るほどの差し迫った問題としての緊迫感は残念ながら感じることは出来ません。
森への期待
こと森林に関していえば、様々な機能に対する期待がかつて無いほど熱く語られているのに、木材供給という一面での価値の低下(木材自給率18%)が整備の立ち遅れの最大の原因として語られます。国土の約七割が森林に覆われたお国柄でありながら、自国の森林は整備が間に合わず、一方で国外の森林資源を食いつぶしている。それが現状です。今の日本では考えられないことですが、かつては、過度な木材需要による森林環境の破壊というものを何回も経験しているはずです。世界的に見れば、そのことに起因して古代文明が衰退したことはあまりに有名です。必ずしも需要の低迷のみに放置林の問題を押し付けるのではなく、もう少し多面的に考える必要性を感じます。
時代ごとに経済の状況は異なります。夫々の環境条件下での森林の適度な利用が可能かどうかということです。
森林整備に関しては、これまで培われた技術や知識の蓄積はあり、それなりの人材も無いわけではありません。しなくてはならないこともおおよそ分っているのです。それでも前進できないことの最大の原因は経済です。行政、森林組合を筆頭とする林業事業体、そして農山村社会のなかで人知れず山と向かい合う人々、それぞれに知恵を絞ってみても経済から置き去りにされた林業の衰退をとめることは容易なことではありません。山作りがいくら公共性の高い仕事であったとしても青息吐息の行政や無償のボランティアのみに依存し続けることはどのように考えても無理を感じます。そもそも、今日の森づくりに関るボランティアの増加の裏には林業を取り巻くこのような寂しい現実があってのことです。
有史以来つい最近までは、森林とは地域の生活を様々な点で支える重要な生活基盤であり、山の神の住処として崇められ、近年では木材生産の場としての視点から、経済的基盤としても大変に意味のある存在でありました。しかし、今日の森林を取り巻く社会環境はその存在の重要性を認めつつも、直接的なつながりは言うまでも無く、間接的なつながりすら認識しづらくなり、結果、森と人との関係が極端に希薄化してしまったといったところでしょう。
森林を好ましい形で維持していくためには、ある程度永続性のある経済的価値を森林に見出すことが必要であり、多くの国民が自然との直接的な繫がりを感じることこそが大切であると考えます。
自然葬の提案
現在都市住民にとってお墓をめぐる問題は深刻です。少子化、核家族化により、将来におけるお墓の維持管理に関しての不安を耳にします。これまで人が亡くなれば普通はお墓に入るものと考えられてきました。ですからお墓のない人はそれを買います。一生に一度でしょうが、それは決して安い買い物ではありません。また、都市近郊では里山を伐採してまでお墓を造成せざるを得なくなりつつあります。本来的なお墓を建立することの意味は魂の平穏、無事を願うことにあるのではないのでしょうか?そこでちょっと発想の転換をしてみませんか?人も羨むような素晴らしい森を作り最後はそこに眠るというのはどうでしょう。亡くなった後にお墓を残すこともいいのですが、素晴らしい自然環境を遺すことは我々自身にとっては勿論、未来世代にとっても十分に心の安らぎにつながる、大変に意義深いことだと思うのです。
雪解けと共に冬の静けさから開放され、待ちわびていたかのように森には小鳥のさえずりがもどります。そのさえずりに誘われるように陽だまりでは小さな草花が開花します。フクジュソウ、カタクリ、マンサク…。小さな芽吹きはやがて大きなうねりとなり、山全体を覆う新緑の波へと変わるのです。森が大きな喜びに包まれる時です。
梅雨を迎えると森の緑はいよいよ輝きを増し、そこに存在するすべての生命は山の神の祝福を授かります。
夏の強烈な日差しが森に降り注ぐ頃にはすっかり木々の緑も濃くなりその中は意外にも静けさに包まれた安息の場所となります。森ではなくとも人々は木陰でそっと汗を拭うのです。
そして、秋。再び、森は一瞬の華やぎを見せると共に恵みの季節となります。やがて来る冬に備え動物たちはその恵みを謳歌するのです。
冬を迎えると森はあたかも生命などとは無縁のような静寂に包まれます。しかし、実は再びやってくる春に備え一年で最もエネルギーを溜め込み充実した時期なのです。
森とはそういう所です。森がそこにある限りその繰り返しです。人間など、居ようが居まいがお構いなしですが、そこにあるすべての生命を優しく包み込んでくれるのは確かなことです。時に、自然に対して恐れに近い感情を抱くこともありますが、人間の遺伝子の中には、生物として自然に包まれることにより癒しを感ずる仕組みが出来上がっているはずです。だからこそ我々は無機質な街にも樹や草花を植え、例え一輪の花であっても、それが部屋にあるだけで安らぎを感ずるのです。
想像してみてください。そんな森に抱かれて眠るということは、とても贅沢で、素晴らしいことだと思いませんか。生老病死、仏教では人間の一生は苦しみの連続だと捉えられています。その苦しみから解放された時に生命力みなぎる森に帰るというのもなかなか魅力的だと思いませんか。
森に限らず、敢えてお墓などというものにこだわることなく、自然そのものに還る、というのが“自然葬”という考え方です。
因みにこの“自然葬”、既に国内でも行われていて、具体的には粉末化した遺骨を海や山で撒くという方法をとっています。しかし、まだ、それが積極的な環境保全活動につながっていないのは残念です。
未来への投資
私はどこでも所かまわず“自然葬”をしましょうなどという荒っぽいことを言うつもりはありません。予め決められたスペースで自然葬を実施することで、環境保全基金のようなものを創設し、その基金で整備を必要とする場所に投資しましょう、ということです。勿論自然葬を実施するスペースというものはなるべく魅力的な場所である必要があります。地域住民からの合意も得られるその様な場所は限られるでしょう。一方で整備の必要性に迫られる森林は気の遠くなるほどの広がりで存在しています。
投資の見返りを受けるのは我々自信ではなく次世代あるいはそのずっと先の世代の人達である可能性が高いです。つまり、未来への投資となるわけです。世の中にはこんなに気の長い自分へのみかえりを期待しない投資というものはなかなか無いかもしれませんが、きっと将来、素晴らしい森林があちらこちらにあることでしょう。その森をどのように活用するかは、未来の人々にお任せしてもいいのではないでしょうか?こんな夢に投資するのも楽しいと思います。
選択肢
お墓を買うときには高いと思った人でも、その何分の一かのお金でそんな素晴らしい森作りに参加するというのであればそれが高いとは思わないでしょう。他人のお墓と見比べて一喜一憂する必要もまったくありません。他人のお墓を見て心安らぐ人は少ないでしょうが、それが素晴らしい森ということであれば話は別です。当事者だけでなくあらゆる人に、また、様々な動植物たちにとっても大切な場所になるのです。
ただし、勘違いしていただいては困るのですが、このことはこれまでのお墓に対する価値観を否定するものでは全くありません。一つの選択肢としての提案なのです。事実、我が家では既に先祖代々の墓があります。お墓参りという行為に心の安らぎを覚えることも確かです。しかし、同じような感情、あるいはそれ以上の感情を自然は我々に与えてくれるのではないのでしょうか。
自然葬の課題
さて、ここまでの私の文章を読まれて私の計画に賛意を示して下さる方は多いと思います。が、実は問題はそれほど簡単ではありません。自然葬は圧倒的に都市部での需要が高いにも関らず、実際にそれを行うとなると、豊かな自然環境に恵まれた地方にそのフィールドが求められることとなります。比較的豊かな自然環境に恵まれた地方においては都市部ほど自然環境に対する憧れというものは無く、お墓に関する深刻な問題ということもありません。また、いかに環境保全の為とは言っても、身近な場所で“自然葬”が行われることに関しては、これまでに培われてきた文化的、宗教的感覚に基づく拒否感というものがあることを無視することは出来ません。
今後、自然葬という価値観が認められるためには、それらの拒否感を地域住民が克服しなくてはならないという難しい問題があります。そのためには都市住民の側にも負うべき義務があるはずです。相互の理解と協力なくして自然葬というものは理想的な発展を遂げるとは到底思えません。生命や、自然環境といった万人に関る問題なので、可能な限り地域住民を含めた多様な関係性の中で行ってゆくべき事業に発展させるべきでしょう。
恐らく、地域の方々のご理解を得ることは困難で、強烈な反対意見が出ることでしょう。しかし、今という時代を生きる我々は、自身のために、そして、未来世代のために何が出来るのか良く考える必要があると思うのです。
お願い
これは森林再生のみに関る提案ではなく、地域社会、都市住民、自然環境の健全な関り方を模索する試みでもあります。既存の価値観とは全く異なる新たな価値観の創造であり、時間と手間を要する大変なプロジェクトであると覚悟しています。それでも苦労するだけの価値は充分にあるはずだと考えるのです。
私の目指しているものが単なる個人や組織の利益追求、あるいは、特定の宗教活動と結びついたものでない、ということは添付の資料や今後の言動からご判断いただけるはずですが、まずはここでしっかりとお断りしておきます。
つたない文章ではありますが、お読みいただいた方々には、是非、ご一考していただきたいと願うものであります。
環境思考庵しんら
樹木医 水野俊哲




私のお山自慢
きまぐれ日記
お寄せいただいたコメント
是非おでかけ下さい。
まずは森と触れ合うことが大切です。期待を裏切ることは無いはずです。そこに新たな感動が生まれることでしょう。
お待ちしています。
Posted by: 管理人TM | 2006年02月03日 20:47
こんにちは。HP見せていただきました。
長い時間が蓄積されている森、その後もまた、長い時間が続いていくであろう森、その中にねむる、ということを想像してみました(まだ、一応若いですが)。私も素敵なことだと思います。でも、私は都市民なので、想像力に限りがあります。だから、そのとっかかりとして森に遊びに行きたいです。よろしくお願いいたします。
Posted by: misako | 2006年02月03日 15:28
森や山、川、海。自然の素晴らしさを伝えることは難しいですね。特に言葉で伝えようとすると。
最近つくづくそう思います。
そのことに気づくためには本当は直に接することが何にも増していいのでしょうが。
接しようにも、今の時代、意識しないとなかなかそれすら叶わないのがちょいと寂しいですね。
ましてやそれが自然葬となると・・・。
ん〜、ガンバリマス。皆さん応援よろしくお願いします。
Posted by: 管理人TM | 2006年01月27日 21:50